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村立東仙道小学校本校新一年生全員とHir先生
 誰が誰でしょうか??・・・・・さすがに55年前でッスしね!
 四月、本校入学直後です。48名一クラスでした。学校裏庭ハス池横の土手斜面ですが、カヤが茂ってツツジが満開です。
 北朝鮮へ帰っていったKanさん、転校していったMar君、Nakさん、Fujさんの顔もありますが、判らない子もかなりいます。
 現在ではとても考えられないことですが、50名近くのあどけない新入児童をHir先生一人で担任されていたのです。
 どの子もこぼれるような無邪気な笑顔です。とても幸せな気持ちになります。まさに天真爛漫なピカピカの一年生たちです。
 笹倉・三谷両
分校から三学年時に約15名が編入してきて、多少の出入りはありましたが、60名二クラスが揃いました
      
 

剣道:下着のまま運動していました。戦時中に銃剣術で使われていた古い防具も寄せ集め修理してて使っていたような?
 風呂もなかなか沸かせない、まともに入れない時代でした。継ぎはぎだらけの着たきりで、皆が汚れた服装に垢だらけでした。清潔な身なりの者が逆にいじめられたりしました。

 
人糞も牛糞も貴重な有機肥料でした。学校ももちろんポットン便所でした。屎尿は学校菜園で使われ、とれた野菜は学校給食に使われました。回虫、ギョウ虫、サナダムシ、時には肺吸虫や肝吸虫まで、寄生虫を飼っている子も珍しくなかった時代です。そのおかげなのか?花粉症やアトピーはなく、喘息などのアレルギー疾患もほとんどありませんでした。
 あの伝説の歌姫マリア・カラスはやせるためにサナダムシを飼い、東京医科歯科大名誉教授の藤田先生も「寄生虫アレルギー防御説」を実証するため?にサナダムシに愛称をつけて体内に飼っておられたそうです(笑い)。
                                                    (小学5年生ごろ)



       
      (題字や写真などの多くを中学校廃校記念誌「回想」S50発行よりデジタル処理して借用しました)

 中学校校舎管理棟の玄関あたり、桜の木立、渡り廊下、中庭からみる教室棟、ここに屋外バスケットコートがあった?

   
 我々の時代は、3学年6クラスで、図書室、小講堂はなく教室でした。男子更衣室の部分が貧弱な図書室でした。 

   


小中学校の合同運動会
 小学校校庭での小中学校合同運動会は同時に
村民運動会も兼ねていました。村民こぞっての祭り・娯楽でした。屋台も出ました。昼食やオヤツとして、各家庭ごとに重箱にご馳走を詰めて持ち寄り、交換して楽しんだり、それを肴にお酒を酌み交わす人もいました。子供から大人まで参加する年齢別部落対抗リレーや地区別綱引き、余興の盆おどり大会までありました。
 中学校廃校後は、小学校だけの少人数で、たとえ地区運動会を兼ねていたとしても、さぞや寂しい運動会なのでしょうね?



  仮装競技

  棒倒し


小学校のオンボロ校舎と石ころだらけの校庭
 東仙道村立国民学校時代(戦前)の校舎をそのまま小学校に使っていました。古いおんぼろ木造校舎の床はギシギシ悲鳴を上げ、今にも抜け落ちそうで、廊下は凸凹していました。暗い長い廊下には百本以上の破れ穴だらけの重い番傘が貸出し用に並べて掛けてありました。屋根は波打って雨漏りもひどく、木製の窓枠はすきま風や雨水が吹き込んで冬は凍えそうでした。狭い校庭には砂も充分入っておらず石ころだらけで、転ぶとひどい擦り傷を負い危険でした。
 校舎の一部は改修されて、体育館兼講堂になりました。年に数回、白い布を張ってスクリーンにして
チャンバラ映画会があったり、たまに旅芝居一座や浪曲師がきたり、村で唯一の娯楽場でもありました。そんな様々のなつかしい情景を思い出させる写真です。
 写真の古い校舎部分は、今は取り壊され、プールと体育館が建っているようです。





自然だけは豊か??
 プールなんてありません。みんな川で泳いでいました。水はきれいに澄んで川底は素足でも安全でした。
 水があるところどこでも、川はもちろん田んぼにも狭い用水路にも小川にも谷川にも、
いくらでも魚がいました。容易に手づかみができるくらい豊かでした。川面に羽虫が乱舞し、それをねらって魚が跳びはねていました。メダカや稚魚は手のひらで容易にすくえました。幼い子供の水遊びで、カワエビやサワガニがいくらでもとれました。
 無数の赤トンボが真っ赤な夕焼け空を泳ぎ回り、ポツリポツリと家に灯がともるころ、川瀬のせせらぎに合わせるようにカジカがにぎやかしく合唱し始めます。真っ暗に陽が落ちていくにつれ、幾千幾万ものホタルが闇夜に優しく美しく舞い淡く短い恋の想いに身を焦がしていました。
 ところが農薬(とくに除草剤)が大量に使われるようになるにつれ、土中・水中の微生物が死滅し、動植物プランクトンが激減し、食物連鎖ピラミッドの底辺が崩れたのでしょう、川の浄化能力が落ちて川底に泥が堆積しはじめました。清流は徐々に失われ、あれほど大量にいたアユ、オビカワ、シマドジョウ、ゴリなどの清流魚はみるみる絶滅し、かわりにコイやフナが棲むようになりました。田んぼのタニシもドジョウもイモリも完全に姿を消し、川で魚も釣れなくなりました。そして、トンボも蝶もホタルも飛ばなくなりました。
緑だけは昔と変わらず豊かですが、≪虫も魚も棲めない虚しい死の世界≫となってしまったのです。



≪中学校生活≫


 給食:父兄が当番で調理を手伝って作っていました。     神社の裏山の植林バイトして教材費の足しにしました。



中学校舎木造2階建ての教室棟が見えています。村はとても貧しく、狭い校庭に粗末な建物、体育館も講堂もまともな図書室もありませんでした。
 学校周辺の民家はわらぶき屋根が多く、神社の裏山は禿げ上がっています。おそらく植林後でしょう。卒業頃の様子でしょう。
 学校農園もあって、男子生徒が当番で天秤棒に肥え桶を担いで、便所の屎尿を運んでいたかな。水洗便所などなく、ポットン便所でした。ウンチでもしようものなら、しっかりお釣りをもらったりしました。
 手前に広がる田畑も区画整理以前で、自然石を積み上げた石垣で区切られ、不規則で狭く階段状に重なっています。当時はまだ大した農機具もなかった時代でした。




神社の高台から(1960年頃か?) 中学校、周囲の田んぼ、仙道郷、小学校あたり、四ツ山、権現山(乙子)を望む。
 それにしても村の中心地なのに、
村の人口が約3000人(美都町全体で約7500人、1955年頃がピーク)と、人がもっとも多かった時期でしたが、こんなに家がまばらだったのですね!
 ちなみに美都町の2008年9月現在人口は約2500人で、東仙道地区:1000人、都茂地区:1200人、二川地区:300人だそうです。となりの匹見町はさらに悲惨です。当時7500人いた人口は1500人弱、5分の一に激減しています。


 私は小学校まで約2km、中学校まで約1.5kmを徒歩で通っていましたが、山奥から深い積雪を踏んで、4~5kmもの長い距離を徒歩で通学してくる者もかなりいました。特に冬期は、温暖化した今と違ってはるかに厳しく、防寒具も粗末でしたし、
積雪の中や吹雪の中を子供の脚で通学するのは大変でした。やっとたどり着いた学校の暖房も、すきま風が吹き込む寒い教室には、効率の悪い薪(石炭)ストーブがあるだけでした。衣服についた雪がとけて濡れた手袋やズボンは冷たく、雪が長靴に入って濡れた足袋で凍えたしもやけの手足はなかなか暖まりません。そんな厳しい条件でしたが、学校を休む者はいませんでした。
  

    
    修学旅行:広島-大阪-奈良-京都ひたすら神社・仏閣ばかりを見て回ったような印象しか残っていません。



卒業時記念写真 戦後ベビーブーム真っ只中の世代です。生涯、競争また競争でした。墓場までそうなんでしょうね・・・・・・・・
 昭和20年生まれ以降の卒業生数は、33,56,67,
60,59,62,44,53,37,40,41,35,26,34,42,(廃校)と推移しました。急激な過疎化により、その後は急速に生徒数が減少しました。東仙道中、都茂中、二川中の3校は廃止され美都中一校に統合されました。





卒業パーティ:当時の胸の思いは、早春賦の歌詞の通りだったでしょうか、いやいやもっと逸っていたかも知れません。
    

           梅も咲き始めて
       
1.春は名のみの 風の寒さや
  谷の鶯(うぐいす) 歌は思えど
  時にあらずと 声も立てず
  時にあらずと 声も立てず

2.氷解け去り 葦(あし)は角(つの)ぐむ
  さては時ぞと 思うあやにく
  今日もきのうも 雪の空
  今日もきのうも 雪の空

3.春と聞かねば 知らでありしを
  聞けば急かるる(せかるる)
  胸の思(おもい)を
  いかにせよとの この頃か
  いかにせよとの この頃か



航空写真1980頃でしょうか?) 朝倉、仙道郷、仙道上、久保坂、久原、三谷、(中倉、下都茂、生角、蛇の久保、笹倉などは写っていません)狭い谷間に小部落が点在していました。中井錦糸工場の一部はみえますが、拡張前です。国道191号線はまだ未整備です。山崩れの傷痕も残っています。かなり後の写真でしょう。



 今は亡きSumIsa君の残した寄稿文(1975)です。懐かしいです。
 私も走るのだけは速く、陸上競技の短距離選手にかり出されていました。一緒に練習したはずです。一周200mしかない狭いグランドでリレーの練習をしたり、雨の日は教室棟一階二階の廊下や階段を走ったはずですが、あまり鮮明な記憶がありません。
 他地区とはどことも体格・体力差が非常に大きく、2学年ぐらい上の連中と戦っているようでした。たしかに大会ではいつもビリっけつで負けていました。
 なぜか?この東仙道地区は、全国的にはもちろん、美濃郡内の他地区、石見地方の各地区と比較しても、
体格が際だって劣っていました。貧困による栄養不足のせいだったのでしょうか?地区の遺伝子プールのせいだったのでしょうか?それは判りません。ただ、それを改善するためにという理由から、全国最初に完全学校給食が小中学校に導入されたそうです。



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